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高校時代 1

中学1年生の頃始まった朝鮮動乱は、高校1年になった時終わった。
石原慎太郎の「太陽の季節」で慎太郎刈りが流行し、私も髪型は慎太郎刈りであった。
蚊帳の中で彼女に”手紙の書き方”という本を見ながらラブレターを書いた。文中に”新太郎”と書いた。早速彼女から”新”ではなく、”慎”だ。と言う返事が返ってきた。
つづく・・・

中学時代 7

玄関を出て右へ行けば国鉄伊予三芳駅、汽車で40分で工業高校であった。
今日からは玄関を出て左へ自転車で40分であった。
部活は水泳部と美術部に入部した。その美術部で私の人生は大きな苦難と苦難と今日への道を選んでしまった。美術の教室での入部会合で、前の方の席に普通科A組の一人の女生徒がいた!この女性がいたことは高校3年間、夢の中で夢を見ているようであった。
1年3学期末には席次55名中49番になっていた。そして50名のみ2年生へ進級した。
つづく・・・

中学時代 6

昔は工業高校は人気が高く、普通高校よりも難しかった。
私は、受験するつもりは全くなかったので、今治工業高校受験日には、在間のマーと二人でNHKラジオに民謡”国安音頭”の歌を吹き込みに行く予定だった。それを急きょ取りやめて受験に行った。
同級生で8人受験した。私は就職コースから1人受験した。
私は合格し、2人不合格だった。当時は入試調整が無かった。
授業料を親にもらえば後はどこへ払っても、玄関を出れば東へ行こうと西へ行こうと、親父は元々関心がない話だと考え、転校活動に励むとともに、画家になろうと考え方も変更した。
愛媛県立高等学校農業科だったら転校可能であった。
自分で勝手に転校してしまった。転校して驚いた!
今治工業高校から届いていた受験成績がクラス55名中、2番だった!
副室長を拝命した。
つづく・・・・

中学時代 5

卒業間近になった日、担任の佐伯先生が「親父いるか?」と訪ねて来た。
佐伯先生は図工科の先生で美術を担当していた。
父への話とは、受験も就職も迫っている事とどちらを選ぶかを確かめるためであった。先生は父に、「絵が少々描けるから高校へ行かせて、将来グラフィックデザイナーでもやらせては?」と言った様に想う。
父は私に「どうか?」と聞いてきた。私は「県立小松高等学校普通科へ行きたい」と言った。なぜなら小松高校には県展で活躍している先生がいることを知っていた。その先生は私の家の近所に恋人がいたことを子供心に知っていた。
父は小松高校はダメだといい、県立今治工業高校だったら行かせるとのことであった。
つづく・・・