青春時代 8
何年何月号だったか忘れたが、芸術新潮の特集 「画家とモデル」
の文章の中で、池田満寿夫が、「私は裸婦は描くが、モデルを使わない。なぜならすぐやりたくなるから。」 と書いてあった。
私もこの事は、今もって同感である。
研究所は毎日モデルが来ている。
若い人から初老まで、痩せたの太いの、白いの黒いの、帝王切開の跡のくっきりした人と、何か人生を見ているようである。
絵のモデルは、服飾のモデルと違ってどんな体形でもよい。又男性も使う。
教室に入ると慣れた者と不慣れな者が良く分かる。
慣れた者は、モデルの前の位置取りが実に上手い。モデルの隅々まで手に取るように見える場所に三脚を立てる。
モデルの方はプロだから、絵が上手いか下手か向こう側からこちらを見る。下手な者は馬鹿にされているのを感じながら描かねばならない。
ストリップを見るのも同じで、向こう側から見ていることを考えると前へ行くには最初は少々勇気がいる。
モデルにも上手と下手がある。
モデル台の上に乗る時、それがよく分かる。
ポーズを変える時、実に慣れを感じる。又個人的に頼べばどんなポーズでもやってくれるものだ。
私は一度だけすごく若くて美しいモデルを見た事があった。
身体は上から下までピンク一色の肌で、日当たりと日陰が全くなかった。
私には経験が無く慣れていないので、よからぬ思いが頭をよぎり、目が引きつった。それが他人に感ずかれないかという羞恥心と、絵が下手で描けない自分をモデルの前に持って行けなかった。
いつも前の人の後頭部ばかり見ていた。
青春時代 7
2008年、ニューヨークのコロンビア大学で、メトロポリタン美術館の学芸員の司会による講演会、「備前焼、今昔」 をやった。
終わった時は、真っ黒な星の無い夜だった。
大学を出て暫く歩いて振り返った。
闇に浮かび上がったドデカイそのドーム見て、私は「やった。やったのだ。」と自分に言い聞かせた。
あの志村前野町の二階への階段を、空腹と疲れで登れなかったあの時と、どうしてもつながらない。
その頃の私は、絵を描くと言うのではなく、やたら絵の具を盛り上げる事に夢中になっていた。
絵の具が足りない分、トイレットペーパーをデパートのトイレから持ち帰り、夜、絵の具と板の上で混ぜていた。
その物音で度々朝飯のとき文句がでた。
まるで左官屋が壁土をねるような状態だった。
その時私が絵を描いていることは、下宿の主人も住人も誰も知らなかった。
ただ、夜中になるとトントン音がするだけだった。
その時の下宿の奥さんの顔はしっかり覚えている。
色白で眉の濃い、目鼻立ちのすっきりした人で、口はおちょぼ口で少々前歯が前に出ていた。一人娘も色白でよく似ていた。東京弁で早口で、いつも怒られているようだった。
壁にもたせ掛けて描いた20号のキャンパス(72.2 x 60.6cm)の木枠が絵の具の重さでついに折れた。
街で拾った板切れを釘で打ち付け、何とかもたせた。
その絵は、その場から重くてついに動かすことが出来なくなっていた。
定義:芸術とは、いかに無駄をまじめにやるか?
その言葉通りにやっていた。
青春時代 6
背に腹は変えられず、職安へ来た。
先日の担当がいない場所へ並んだ。
今度は、藤巻塗装という工場へいった。各種メーターの文字盤専門の塗装をやってた。
私の仕事は真鍮の円盤に下地をつけてあるものを、水ペーパーに黒いゴムの当てに巻いて研ぐ。立って、膝の高さぐらいに厚い板が長く設置してあり、その50cmぐらい上に水道の配管が板に沿って通っている。
そのパイプから四六時中水が細く一筋落ちている。その下でほとんど研ぎ落として又下地付けに回す。
この作業は、一日中昼の食事以外はつづく。
私は昼食は金が無くて食べなかった。
従兄弟が、志村前野町に下宿を探してきた。
朝夕食事付きで確か七千円だったと思う。
下宿は斎藤さんと言って、広島出身で娘と三人家族で一階に住んでいた。
まだ美術研究所へ行く暇も金も無かった。
休まず1ヵ月働いて九千円には届かなかった。下宿代と電車賃を取ったら、ほとんどが残らなかった。
お袋が米と大豆を炒って砂糖をまぶしたものを一斗缶に一杯詰めて送ってくれた。
親父に隠れて送ってくれた。
お袋の精一杯の気持ちだったのだろう。
青春時代 5
モモヒキは後前反対に穿くと違和感で分かる。
今日びは、靴下を履いたみたいに何も感じない。
立小便の時に始めて分かる。
今日一日は小便の度に腹が冷えた。
東京での話しに戻るが、
池袋の職業安定所へ行った。
鉄の窓枠を製作している工場のトラック運転手の仕事があった。
面接に行った。
早速明日の朝から勤めてくれとの返事。
初出勤の朝は、小雨が降っていた。
国鉄の忘れ物即売会で20円で買った傘をさし、病院のトイレから履いて帰った自動車のタイヤを付けたツッカケ下駄を履いて、古着屋で100円で買ったレインコートを着て出勤した。
事務所で挨拶をしたら、その足元ではと古いゴム長を出してくれた。
担当が書類を持って工場まで案内してくれ、書類を渡された。
見ると、銀座の何とかビルの工事現場の住所のみが書いてあった。
私は助手がいるものと勝手に思い込んでいた。
まさか私一人で運転して行くとは夢にも考えていなかった。
私は工場を出て右へ行くのか、左へ行くのか、自分の今いる場所すら東京のどの辺りか分からなかった。
トラックの荷台には鉄の窓枠が山と積んであった。
私は慌てた。
兎に角、逃げることに決めた。
現場事務所を隠れて見ていたら人が居なくなった。
その隙にゴム長をツッカケ下駄に履き替えて人に見つからないように、頭を低く、背を丸め、下駄音を気にして通りまで逃げて来た。
雨は止んでいた。
後を振り返り、人目を気にしながら町の角を曲がった。
「あっ、傘を忘れて来た!」
しばらく考えようと思ったが、工場からトラックが出て行かなかったら気付かれてしまうのでは?と急いで傘を取りに工場へ引き返した。
まだ現場事務所に人は居なかった。