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高校時代 3

修三の絵の教えは、絵を描くことではなかった。
”どうやって団体展に入選するか、世の中へ出て行くか?”
のようなことを言っていた。
それは、後の私に強烈に役に立った。
今日の生活もこのときの教えのお陰だと感謝している。
彼は武術の話もよくしていた。それも実戦形で相手をどうやって倒すか。
で、私の一番気になったのは相手の顎を脱臼させるのが命に別状無く倒すことが出来るという話だったと思う。
又、学生時代合宿で腹が減って、宿舎の近くの養鶏場の鶏を盗んで皆で食った話もあった。鶏は針一本を後頭部の首の付け根に刺し込めば声も無く一刺しで殺すことが出来るそうだ。
そんな話の時の彼はまるで学生そのものだった。

ある雨の日、彼は仕事もなく、「映画を見に行こう」と誘われて汽車で今治市まで行った。
その時の映画は確か「ジャンバルジャン」だったと思う。
映画の途中、トイレに行くと言って傘を残したまま帰って来なかった。それが彼との最後の別れとなった。
何年かたった後に「京都の大学生で学生運動をやっていて、追われて逃げてきていた」とのうわさを聞いた。
今も生涯も私の一番会いたい人だ。
その人の名は イズメ シュウゾウ と言う。

高校時代 2

私の家の前に小さな空家があった。
ある日一人の学生風な人が入居して来た。
名は修三と言った。身体が大きくたくましく、ヒゲ面の角ばった顔が笑えばとても優しく感じる人だった。
彼は荷馬車を引いて、工業廃棄物を埋立地に運ぶ仕事をやっていた。
彼は私の家庭教師的な事をやってくれた。私は眠くて眠くて毎夜あくびばかりしていた。英語も数学も彼が復習をしているようで、まるで他人事の様だった。
食パンにマヨネーズをたっぷり塗ってその上に砂糖をのせて、その上にパンを重ねたサンドイッチを彼は良く食べていた。
大きく口にパクつく様はとてもたくましく思った。
私も今でも良くやる。甘酸っぱくてウマイ。
油絵も彼が指導してくれた。
英語と数学は、彼の努力の甲斐もなくテストはいつも3点だった。0は許されなかったのだろう。
通知表を見ると、科目では、生物が105点、美術は100点、なぜか科学はいつも90点以上で、数学が出来ないのを教師は不思議がっていた。
生物の105点は教員室の担当に聞きに行った。生物の先生は高校教師が不足で、大学から来ていた。105点の5点はミミズの解剖とても上手く、雌雄同体の卵巣と睾丸を明解に取り出して見事だったと褒めてもらった。
つづく・・・

高校時代 1

中学1年生の頃始まった朝鮮動乱は、高校1年になった時終わった。
石原慎太郎の「太陽の季節」で慎太郎刈りが流行し、私も髪型は慎太郎刈りであった。
蚊帳の中で彼女に”手紙の書き方”という本を見ながらラブレターを書いた。文中に”新太郎”と書いた。早速彼女から”新”ではなく、”慎”だ。と言う返事が返ってきた。
つづく・・・

中学時代 7

玄関を出て右へ行けば国鉄伊予三芳駅、汽車で40分で工業高校であった。
今日からは玄関を出て左へ自転車で40分であった。
部活は水泳部と美術部に入部した。その美術部で私の人生は大きな苦難と苦難と今日への道を選んでしまった。美術の教室での入部会合で、前の方の席に普通科A組の一人の女生徒がいた!この女性がいたことは高校3年間、夢の中で夢を見ているようであった。
1年3学期末には席次55名中49番になっていた。そして50名のみ2年生へ進級した。
つづく・・・