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青春時代 3

その後、様々な運転手をやってみた。

なかなか金は出来なかった。

 

成人式の日も運転手を休ませてもらうことは許されなかった。

成人式の日、私は決心した。

「明日、東京へ行こう」と。

大和証券で一口千円の投資信託をこつこつやり、8万円が貯まっていた。

それを換金した8万円も5万円は親父が預かると言って取り上げた。

私は3万円を持って東京へ出て行ったのである。

従兄弟が結婚して板橋に住んでいた。まだ新婚で、二人とも働いていた。

私は居候を始めた。

 

現代美術研究所は田町にある。

田町の駅を出て浜松町に向かって3分ほど山手線沿いに行ったところにあった。

福沢一郎、三岸節子、鳥海青児そして私の入った宮本三郎教室があった。

私の本心は鳥海青児が好きであった。

鳥海教室に入ると真似てしまいそうな気がして、あえて宮本教室を選んだ。

研究室は入ったらすぐそこが受付で、事務所の脇から教室がのぞけた。

そこには裸婦が全裸で立っている。もっとも裸だから裸婦と言うのだが。

私は見ないふりをして見ていた。何か悪いことをしたような、しているような心臓の高鳴りを覚えた。

 

私の手には、旅費と月謝を払った残り数百円が残った。

明日から何が始まろうとしているか。

裸婦を見る事も、食って行くことも全く自信がなかった。

青春時代 2

私の一番苦労したのが缶詰の空き缶であった。

なぜだか今もって分からないのだが、この空き缶が山と集まる場所があった。

山のように野積みされた空き缶は、雨水が溜まり腐ってたまらなく臭い。

これをジョウレン(竹製品)ですくって荷台に乗せていく。荷台へ上げる時にこの水が否応無く胸から下へ流れ出てかかる。

これはたまらない作業だった。 MORE »

青春時代 1

昭和32年6月、松山の愛媛自動車専門学校・運転科へ入学。

当時は今のように教習所がなく四国ではこの自動車学校一ヶ所で、修理整備科もあった。

一ヵ月後に小型四輪車免許、自動三輪車、普通自動車と立て続けに三種の免許を取得した。

卒業式もあり、優秀賞を貰った。

「学校に勤務する気はないか?」との事であったが、私は自宅へ帰ってきた。 MORE »

高校時代 19

東京デザイナー学院を受験した。試験は作文のみだったと思う。

両親は、画家はダメだがデザイナーだったら許すと言った。

合格していざ東京へ来たもののデザイナー学院にはどうしても行く気にはなれなかった。

あの時なぜ嘘を言えなかったのだろうか。

親父は「もう応援しない。」と言ってきた。

私は仕方がなく有名画家 林武 を訪ねることにした。林武は芸術新潮や美術手帳等で中野のアトリエを写真で見ていたので、中野駅から歩いてすぐのところですぐに判った。 MORE »