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青春時代 1

昭和32年6月、松山の愛媛自動車専門学校・運転科へ入学。

当時は今のように教習所がなく四国ではこの自動車学校一ヶ所で、修理整備科もあった。

一ヵ月後に小型四輪車免許、自動三輪車、普通自動車と立て続けに三種の免許を取得した。

卒業式もあり、優秀賞を貰った。

「学校に勤務する気はないか?」との事であったが、私は自宅へ帰ってきた。

 

この免許で金を稼いで東京へ行こうと考えた。

当時は現在のようにフリーターとかアルバイトなどは皆無に等しかった。

 

私は近くの韓国人のやっているクズ鉄商に運転手として就職した。

主人も奥さんもとても良い人で町中で信頼が厚く、私の町の運動会や秋祭りに多額の寄付をしたり、子供会にプレゼントをしたりしていた。

ある時にこの夫婦の韓国に残してきた子供が密入国して来た。

町の人達はいっせいに署名活動をして外務省へ嘆願して許可が下りた。

 

その彼と私は年が多くは離れていなかったと思う。

毎日彼を大型自動車三輪の運転台の助手席に乗せて町中走り回った。

その頃は日本人のおばさんたちがリヤカーを引っ張って田舎の村々を回り、クズ鉄やボロギレ等を買い集め、村の集会場の前などに集積していた。

夕方になるとこのクズを集めて回った。

クズ鉄で一番苦労したのは鉄工場の旋盤の削りかすのダライコだった。

ダライコはスプリング状で、熊手で引っ掛けて荷台に引きずり上げるのである。上げたつもりで手を休めるとスプリング状のダライコは元あった所に逆戻りしてしまうのである。