BLOG

同窓会

2011年10月16日~19日にかけて、旧名・国安中学の同級会を台湾でやった。小さな田舎の小さな小中学校の小さなクラスだけれども毎年毎年楽しみにしてやっている。

台湾には私のファンで業者のKさんがいる。
台湾に行く事を何かのついでに一応お知らせした。
その彼からFAXが入り、茶碗と酒器を持ってきてくれとの事だった。

当日、男性4人と女性3人が台湾へ集まった。
私は台湾からの東日本大震災への義援金のニュースを見て感激し、頭が下がる思いをした。
その意思表示を、黒と赤のTシャツに油彩で背中に
「謝謝台湾」と大きく描いた。
胸の方には子供達と太陽と犬が遊んでいる絵を描いた。
黒いTシャツをわたしは着用していた。
地元ガイドがそのTシャツが欲しいと言うので、赤い方をプレゼントした。
彼女は「謝謝」と言った。

ホテルへ来た業者のKさんが、私を見るなり
「台湾のテレビでコマーシャルに出ている私をいつも見ている。」
との歓喜の声を聞いた。
結果的に、昼間は彼の案内で私のファンやギャラリーを回り、
同級会は夜のみの参加になった。

帰国後は 韓国 大邱アートフェアーの準備で大忙しだ!

PS, 明日は”つぶやき” 公休日

高校時代 6

入部してプールの部室へ行くとすでに一人プールで練習をしていた。平泳ぎである。
25Mのターンをしてこちらを向いたその顔を見て驚いた。
当時は競泳中も練習中もゴーグルやキャップもなかったので彼の顔はすぐ判った。
ついでに言うと、競泳用パンツの下のサポーターすらなかったぐらい。
で、晒しの引き裂いたもの6尺フンドシだった。

美術部にいたぞ!彼の名は、惟弘と言う。色黒で男っぷりのいいモテタイプだと思った。
その日の中にに親しくなり、その日の中に彼の家へ寄食し大飯を食った。
そして何よりも驚いた事は、「高校時代1」でラブレターを書き、「新は慎だ」と返事が返ってきた美術部の女性が2,3軒隣の住人だった!
私は農業科、惟弘は普通科。二人で居る必要性は何もないのにもかかわらず、何の疑いもなく彼の家から学校へ通った。

5月に入ったら水泳新人戦を兼ねた地方予選があった。
隣町の今治西高等学校で県下一の有名進学校でもあり、オリンピックへ行った”田中守”もここの出身だった。
プールは公認の50Mプールで、何と長いプールだと感じていた。
競技も進み、ただ見ているだけの私に先輩からいきなり指名がかかり、特別競泳400M平泳ぎに出場することに。全3名の中1名私がエントリーされた。
私は足が震えた。50Mプールの長いこと。向うに到着するか?それが心配で、スタート台に上がったときは死刑台に立った様な気分がした。
ピストルが鳴ってその音で自然と頭から飛び込んでいた。
その水路の長かったこと。先の2名はもうすでにゴールしプールサイドに上がっても、私はまだこれから引き返さなくてはならない。
それから永遠と泳いだ気がする。
400Mが終わってプールへ引きずり上げられ両脇から抱えられるようにして私の初陣は終わった。
つづく・・・

高校時代 5

我が愛媛県立丹原高等学校にはプールがなかった。
小さな町の裏通りに農業用水を溜める為の25mプールがあった。そのプールを借りて練習していた。
そのプールが使えるのは、4月から10月ぐらいで、夏は町民や子供達で満杯であった。そういう時は、山際の農業用溜め池を渡り歩いた。12、1、2月は柔軟体操をやるだけ。3月からの溜め池の練習の寒かったこと。胸がしめつけられ呼吸が出来ない。

私は子供の頃から川や海で魚をつかまえる事は天才的であった。
土手の崩壊を防ぐために杭を打って松板をはめ込んである。
その左右の割れ目から静かに手を入れる。柳の根元の洞穴でも同じ。
うなぎ、なまず、フナ、コイと色々の大小の魚がかくれている。
このとき慌てると逃げられる。
まずさかなの頭と尾が左か右かを確かめる。私の場合、頭が右にあればまず100%獲れる。頭が左の場合は左手で魚をつつき方向をかえさせる。
それは急がず、1にも2にもソフトに息をこらしてやる。
この時の気持ちがたまらなくスリリングで、魚が大きければ大きいほど胸が高鳴った。
魚は尻尾を触ると敏感になり逃げる。右手で頭の方を手の内へ包み込むように目を隠すと動かずじっとしている。
左手は尻尾をさけ、腹の下へ回しそっとすくい上げると魚は逃げないで取り出すことが出来る。

だから水のあるところは大好きである。
今も同じ変化なし。
水泳部に入ったのもただ水が好きだからだ。
つづく・・・

高校時代 4

私の小さな村からオリンピック選手が2人出た。どちらも水泳で平泳ぎをやった。
一人は私と同じ中学の先輩の田中守で、もう一人は後輩の田口信教である。
私は子供の頃は田中守の隣に住んでいた。
彼は古くからの雑貨店でタバコや塩を商う店の次男坊で、旧制中学から新制高校、そして早稲田大学で水泳をやった。
村でオリンピックから帰った彼をため池で模範水泳をさせた。
この頃の平泳ぎは左右同時に動かせば何をしようと認められた。早い話がバタフライも平泳ぎのうちだった時代がある。
彼は潜水泳方で活躍。浮いて泳ぐより潜るほうがスピードが出るのである。
ため池には青藻がびっしり繁茂しているところが一ヶ所あった。
彼はそこで頭を持ち上げた。
観衆は一斉に笑った。
以前にも書きましたが、私は全て並でした。高校の体育の部活は水泳を選んだ。中学時代、小川や海岸で泳いだぐらいでプール等見たこともないにも、である。
つづく・・・