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中学時代 4

タイムカプセルを開ける同級会をテレビでよく見かける。
私の時代はタイムカプセルはなかった。
将来何をしたいか作文にする授業があった。
私は覚えている。動物が好きだから獣医になって動物園に勤めたいと書いた。
小学校のときは”野口英世”の伝記を読んで、医者になろうと考えた時があった。クラスの勝が医学部を3年か4年連続受験して後に、倉庫会社に就職した。彼は中学も高校もすごい勉強をしていた。
私は予習も復習も宿題もやらないことにしていた。時には授業もさぼる事にしていた。勉強して出来るのはなぜか許せなかった。
テストは何もしないで挑むのが正義だと自分に言い聞かせていた。
学ぶことはまねることからだと言う。
私は野口英世の伝記に忠実に「ドジョウを小川ですくう」事はよくまねた。

中学時代 3

私は体育も勉学もだいたい中ぐらいで見栄えのしない、いわゆる並だった。英雄と言う頭が優秀で柔道のうまい転校生が来た。
彼に誘われて警察本署の柔道場へ練習に行くようになった。
彼に演劇も教わった。別に部活があるわけでもないのに、時間があれば場所を選ばず、教室とは言わず、映画の一場面を再現する。特に「剣豪ダルタニアン」は熱心にやった。
そのうちに誰とはなしに人数が増えて、6,7人になり、英二も加わった。
英二と私はいつの間にか主役を演ずるようになった。台詞も筋書きもいつの間にかアドリブでまとまり、「西瓜泥棒」「一芸の関所」が完成した。
田舎の劇場を借り上げて有料で開演した。劇の途中で私が何か余計なことを行った為に幕引き役が誤って途中で幕を引いてしまい、あわててまた開幕した事を今も鮮明に覚えている。
その英雄も北朝鮮へ帰って行った。

中学時代 2

旧町村名 愛媛県周布桑郡国安村。村立中学校の同級生は120人ぐらいいたと思う。
小学校の頃から絵の上手い者が何人かいた。
その中で一際抜きん出た光雄がいた。彼は私の家の3軒隣に住んでいた。絵は勿論、勉強もスポーツも、走らせるとその早きこと風のごとし、喧嘩も遊びも。特にコマまわしは凄いものを感じた。彼の前に出るものは世の中にいないと小学生の時から思っていた。
私は何の人生哲学も思想もあったわけではなく、その彼が、就職コースに手を上げたから、その流れに乗っていつの間にか手が上がっていた。という方が正しいと思える。なのに、双子のごとくいつもくっついて遊んでいた英二が進学コースへ行ったのはよく理解できなかった。英二は後に、地球物理学会の会長もし、大学教授としてロシアやスウェーデンでも活躍した。
光雄は京都へ友禅染めの修行に行った。つづく・・・

中学時代

古い話をやり始めたら、年をとった証だと世間では言うらしい。
仕事をやっていると若い頃の発見や経験が意外と役に立つ。
もっと言えば、それだけで今日生きているのだ。・・・残念なことに。
私の両親は子供の将来等の事はあまり考えない人だった。どちらも6人兄弟の6番目みたいで、自分達の現在でいっぱいいっぱいだった。

私が小学校6年の秋のことだった。
親父が足に大怪我をした。長期入院をして翌4月、自分の郷里、宮城県の鎌先温泉へ私を連れて、親子3人で湯治に行くと言い出した。
中学校へ入ったばかりで担任は反対したのだが
「親が連れて行くのに何が悪い」
の一点張りで、やむなくOKがでた。私も別に嫌でもなかった。
そういう家族であった。

私が高校へ進学する事も無関心だった。
私は中学の2学年に進学するとき何も考える事も無く、英語がなくて職業があった就職コースに手を上げていた。
進学コースの者達は毎日居残り学習をやっていたが、私はその者達のことを「何か悪いことでも仕出かして居残りさせられているのだ」
と思い込んでいた。そのまま3年生となった。
私は中学校を卒業すると、横浜の鶴見へ丁稚奉公に行く事を両親にも言わず、自分で決めていた。とにかく東京の近くへ出て行くことを考えるだけで胸が高鳴った。進学組も就職組も全くきにする事なく、ひたすら心は横浜の街をさまよっていた。かといって行く先が具体的に決まっていたわけではない。ただひたすら卒業を待っているだけであった。