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青春時代 4

中学時代、柔道と演劇をやっていた朝鮮人の英雄が、その頃新宿のBarで働いていた。

彼を訪ねて行き、「私も働きたい」 と言ったが、彼に怒鳴りつけるように

「お前の来る所じゃない!」

と言われ追い返された。

彼はその後北朝鮮へ帰って行った。

 

池袋から一つ目が豊島園、二つ目が椎名町。

椎名町のトキワ荘に美術部の後輩の篠宮が一階に住んでいた。

篠宮君は父が確か公務員で、我が村の旧家の息子だった。

私は彼を訪ねてトキワ荘へ行った。

「何か働き口はないか?」

と言ったが、彼は実に冷静に帰ってくれと言った。

 

今になってテレビで見て驚いた。あの時二階では、赤塚不二夫、藤子不二雄、石森章太郎 等がマンガの制作活動をしていたのだ。

私は世間知らずの田舎者だった事に自分でもあきれる。今もあまり変わらないが・・・。

あのトキワ荘も今は記念碑のみらしい。

 

居候先の従兄弟夫婦の仲が少しずつおかしくなってきた。それが私のせいだった事は今になって良く判る。

私は居候がやりずらく、従兄弟は帰って来なくなった。

 

その後、郷里の仙台へ帰った従兄弟と亭主。

今年私が地震見舞いに行っていたとき、急逝した。

皮肉にもあの時の迷惑の侘びを言いたくて電話をして話しかけた時だった。

青春時代 3

その後、様々な運転手をやってみた。

なかなか金は出来なかった。

 

成人式の日も運転手を休ませてもらうことは許されなかった。

成人式の日、私は決心した。

「明日、東京へ行こう」と。

大和証券で一口千円の投資信託をこつこつやり、8万円が貯まっていた。

それを換金した8万円も5万円は親父が預かると言って取り上げた。

私は3万円を持って東京へ出て行ったのである。

従兄弟が結婚して板橋に住んでいた。まだ新婚で、二人とも働いていた。

私は居候を始めた。

 

現代美術研究所は田町にある。

田町の駅を出て浜松町に向かって3分ほど山手線沿いに行ったところにあった。

福沢一郎、三岸節子、鳥海青児そして私の入った宮本三郎教室があった。

私の本心は鳥海青児が好きであった。

鳥海教室に入ると真似てしまいそうな気がして、あえて宮本教室を選んだ。

研究室は入ったらすぐそこが受付で、事務所の脇から教室がのぞけた。

そこには裸婦が全裸で立っている。もっとも裸だから裸婦と言うのだが。

私は見ないふりをして見ていた。何か悪いことをしたような、しているような心臓の高鳴りを覚えた。

 

私の手には、旅費と月謝を払った残り数百円が残った。

明日から何が始まろうとしているか。

裸婦を見る事も、食って行くことも全く自信がなかった。

青春時代 2

私の一番苦労したのが缶詰の空き缶であった。

なぜだか今もって分からないのだが、この空き缶が山と集まる場所があった。

山のように野積みされた空き缶は、雨水が溜まり腐ってたまらなく臭い。

これをジョウレン(竹製品)ですくって荷台に乗せていく。荷台へ上げる時にこの水が否応無く胸から下へ流れ出てかかる。

これはたまらない作業だった。 MORE »

青春時代 1

昭和32年6月、松山の愛媛自動車専門学校・運転科へ入学。

当時は今のように教習所がなく四国ではこの自動車学校一ヶ所で、修理整備科もあった。

一ヵ月後に小型四輪車免許、自動三輪車、普通自動車と立て続けに三種の免許を取得した。

卒業式もあり、優秀賞を貰った。

「学校に勤務する気はないか?」との事であったが、私は自宅へ帰ってきた。 MORE »