高校時代 16
二科愛媛支部展の後は絵を描くこともなかった。
自分は自分なりに悩んだ。
親に言っても進学は不可能だし、さりとて就職口は親の希望とはあまりにもかけ離れていた。
父は”間建設”へ入れたかった。なぜなら縁者に重役の最右翼がいた。
母は自分の一番尊敬していた大阪中央市場で青果問屋をやっていた兄が亡くなったため、どこか丁稚奉公に行かせ青果をやらせたかった。
私は密かに美大や専門学校の資料を取り寄せていた。
雑誌も美術手帳、芸術新潮、みずえ、三彩、等専門誌を購読した。美術手帳は初刊から持っていた。
中学の頃、横浜の鶴見を夢見ていたが、今度は東京へと心は毎日走りつづけた。
その頃東京芸大には、林武がいた。頭髪はもじゃもじゃで、顔には深いしわが無数にあり、多少ピカソやモジリアーニの影響を感じさせ大人気作家であった。
鳥海青児も好きだった。
絵の具に木の灰や砂や土を入れてレリーフのようなマチエールで、決して見て美しいとはいえないが、何か東洋的でピカドールやスペインの風景を描いた。私は彼の皇居二重橋の絵が好きだった。マチエールがあってフォルムが無いのがフォルムだった。
私は絵は描くことは出来なかったが、本は見た。
加山又造と織田広喜が新人賞をもらって芸術新潮の口絵になった。
北大路魯山人がヨーロッパ展のための作品選択や荷造りの写真もあった。
戦後、福島繁太郎氏が東京フォルム画廊をつくり、ルオー展を東京でやっていた。そして香月泰男を世の中に売り出した。
洋服屋だったサエグサが2階を”サエグサ画廊”にした。
銀座の兜屋画廊が新人 斉藤正夫を売り、草間彌生がニューヨークで裸で走って、上野では二科会が裸のモデルを御輿に乗せて担ぎ、読売アンデバンタンが沸いた。
少々前後左右した記憶だが、私はなすすべもなく本をながめていた。