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サラリーマン

出張しない限り午後5時が来ると会社を出て、ほとんど真昼間のような街を若い部下を連れてバーへ行くのがお決まりだった。

世の中は日増しに忙しくなって、何をやっても儲かった。

街中の人々の動きが激しくなって、バーとキャバレーは花形で、競うように早く店を開けた。

私の会社は、創業明治何年かで、この町では名門中の名門の会社が立ち上げた新会社だ。

 

当時は、大阪が本社の商社Mの紙パルプ課の商品を主に扱う。

なかでもK社の愛媛県西条工場で製造するフィルムは、あらゆる繊維製品の包装に使われた。

我が社は、名古屋から西、大阪泉州地区、岡山水島地区、愛媛今治地区に販路を持っていた。

我が社も大阪支店を持っていてM社とK社と行動をともにして、販路拡張に紛争した。

 

私は当時、寝具の大手、東京のN社を任された。

この会社は、織田信長の槍持ちで、戦場で信長に蚊帳を作って掛けたときから始まったと聞いた。日本橋にある。

課長が社主になった時、何台目かの襲名披露パーティーも出席した。

 

この東京N社を獲得できれば、京都N社、大阪N社もまとまるのである。

これはとても大きな仕事であった。

 

東京へ行くにはまだ新幹線は無く、夜行列車での出張であった。

その時のN社の担当課長は、一ツ橋大学出身の娘婿で、後の社主だ。その課長はいつも武蔵美出身の女性デザイナーを連れていた。

私は多少美術に関心があったので、仕事の話よりも美術の話を彼女によくした。今日までの自分の話もよくした。

彼女は、長野県小諸出身だった。

 

そして、この大きな仕事の契約が決まった。

今もよく分からないが、課長が私を信じてくれたのだった。