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高校時代 14

私が理由は知る由もないが植木先生は、脊椎カリエスで寝たきりの女性と結婚したのである。

私は先生の住んでいる町営住宅を50号のキャンパスいっぱいに描いた。
なぜかその赤い屋根とクリーム色の壁の横2列の色のみの絵であった。
植木先生からの話で、愛媛大学教育学部の野村正三郎教授が中心で、二科会愛媛支部を結成するとの事。
私に参加をしないか、との事だった。
第一回発表は三越松山店で開催するとのことだ。
私はF10号3枚に花の絵を3点描いて、三越の壁を飾った。
大学や県内で頑張っている二科会の大先輩に囲まれて、私は生涯絵を描こうと決心をした。
愛媛新聞の家庭欄には、私の記事が2日連続トップで掲載された
「少年天才画家」と。
高校に入って油絵を描いたのはこれで計5点目の事であった。
その時の絵は絵の具が厚塗りであった。
その後3年も経って中央美術学園で見てもらったら、マティエールばかりでフォルムが無いと言われた。
そしてその絵は燃やした。

私が絵を描くことを親父と伯父にこっぴどく怒られた。
親父と私の決別はここから始まり、親父が84歳で死ぬまで続いた。
「この道楽者が!」
で父と子の関係は終わった。

そして三越展の終わった時、植木先生が自分が二科展でもらった何かの賞のメダルを私の手の平にそっと置いて立ち去った。私は何を意味するのか今も分からないままでその後先生と会っていない。