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サラリーマン 3

大阪万博の話がでて、岡山支店開設が本格化してきた。

私は常務に別室に呼ばれた。

その話の内容は、「岡山支店長で行ってくれないか」との事であった。

 

その頃、私には2つショックなことがあった。

私をこの会社に紹介したその人は、愛媛松山の支店長になっていた。その彼が自殺した。

そして、私の部下の使い込みが発覚。

使い込みは上司に知らせる前に、我が課内で残業して帳面づらを合わせて何とかやった。

 

そして、その時が来た。

私は辞令をもらった。見ると、本俸31000円と書いてあった。

私は内ポケットから辞表を出した。

その唐突さに、さすがの常務は言葉が出なかった。

 

私にいつも協力的だった部下の一人が、「課長が辞めるなら僕も辞める」と言って、私と同時期にに辞めてしまった。

彼は、優男で背が高くて男気の強い彼は、

その後、彼が特殊コンピューター会社の社長になったことを私が知ったのは、昨年のミウラートヴィレッジ・三浦美術館での個展のオープニングに女房を連れて来てくれて、であった。

今は会社を退職してのんびりやってるらしい。

 

私は会社を辞め、東京での個展のため、本格的に絵を描き始めた。

「一年以内に売れる絵を描く」

自分に言い聞かせては、励んだ。

そして個展も終わった。

そんなに甘いものではなかった。

 

又無一文で東京へ出て行った。

今度は一人でなかった。

会社の別部内にいたデザイナーが、東京で仕事がやってみたいと同行した。

恵比寿の谷間のような貧しいアパート6畳一間に2人で住んだ。

彼は数ヶ月後に赤坂の有名デザインオフィスに就職して、部屋に私一人が残った。

寒い冬だった。

サラリーマン 2

会社も創立3年目に入り、私はバイトのつもりが、課長代理になった。

売り上げも順調に伸び、当時の年商3億円ぐらいになり、その3分の2が私の課の売り上げだった。

課長代理になり、出張旅費も一等旅費が出た。ホテル泊まりで飛行機を使うことが出来た。

東京、松山間はYS11機だった。

私の本俸は、2万9千円だった。

出張旅費の余りが大きく、交際費もほとんど制限がなかった。

又当時は、大手の会社の課長以上には、かなりの品物を贈与するのは当たり前であった。

世の中も豊かになり、人の心も変化してきた。

贈答用品も色々考えられ、その一つに絵画があった。

私は東京銀座から日本橋へ画廊を見て歩く。

銀座で贈答用の絵画を買った。

そして日本橋の日本橋画廊で「池田満寿夫」の第一回個展に出会った。

単色のドライポイント「小さな沼たち」を自分のために1万5千円で買ったのはこのときだった。

その時、多色刷りの「タエコの朝食」2万円を買っていたら今、相当するだろうに。

そして、此花画廊があった。

店に入って絵を見て思った。「私も描けるのでは。」

これが運命を変えてしまうことになる。

私は、私の絵を見てもらう約束をして帰った。

 

帰った私は、早速絵を描く。

絵の具は水彩で、和紙をもんでシワをつけ又もむ。和紙が粉っぽくなるまでもみ、その和紙を台紙に糊張りをして、木炭でアウトラインをひいて水彩絵の具をたらしこむ。

乾かないうちに又絵の具をたらしこむ。

絵の具と和紙が油彩画でも水彩画でもない表情を出す。

 

第1回安倍安人展が決まった。

サラリーマン

出張しない限り午後5時が来ると会社を出て、ほとんど真昼間のような街を若い部下を連れてバーへ行くのがお決まりだった。

世の中は日増しに忙しくなって、何をやっても儲かった。

街中の人々の動きが激しくなって、バーとキャバレーは花形で、競うように早く店を開けた。

私の会社は、創業明治何年かで、この町では名門中の名門の会社が立ち上げた新会社だ。

 

当時は、大阪が本社の商社Mの紙パルプ課の商品を主に扱う。

なかでもK社の愛媛県西条工場で製造するフィルムは、あらゆる繊維製品の包装に使われた。

我が社は、名古屋から西、大阪泉州地区、岡山水島地区、愛媛今治地区に販路を持っていた。

我が社も大阪支店を持っていてM社とK社と行動をともにして、販路拡張に紛争した。

 

私は当時、寝具の大手、東京のN社を任された。

この会社は、織田信長の槍持ちで、戦場で信長に蚊帳を作って掛けたときから始まったと聞いた。日本橋にある。

課長が社主になった時、何台目かの襲名披露パーティーも出席した。

 

この東京N社を獲得できれば、京都N社、大阪N社もまとまるのである。

これはとても大きな仕事であった。

 

東京へ行くにはまだ新幹線は無く、夜行列車での出張であった。

その時のN社の担当課長は、一ツ橋大学出身の娘婿で、後の社主だ。その課長はいつも武蔵美出身の女性デザイナーを連れていた。

私は多少美術に関心があったので、仕事の話よりも美術の話を彼女によくした。今日までの自分の話もよくした。

彼女は、長野県小諸出身だった。

 

そして、この大きな仕事の契約が決まった。

今もよく分からないが、課長が私を信じてくれたのだった。

青春時代 11

雨降りの広い干拓工事現場は、空と海との境が消えて重く雲が垂れ下がり淋しい。

私は雨合羽の上下を着て土方に行った。

干拓は、左右から海を土手で挟み、最後は門扉を作る。

その門扉作りは、左右から来た土手の7、8m外側に別の土手を作り、門扉が出来上がる。

その土手を作るため当時は歩み板を渡し、一輪車で生コンクリートを運ぶ。

一列に人夫が一輪車を持って並ぶ。

ミキサー車から出てくる生コンを一輪車に受けて歩み板を渡って行く。

その板の巾は、5、60cmぐらいで、海面まで3、4mぐらいのところに渡してある。

私の順番が来た。

私は歩み板には苦い経験がある。

 

一度今治港の青果問屋木万へ丁稚奉公に行ったことがあった。

そこで渡船と岸壁の間を歩み板が渡してあり、船から青果物を抱えて下ろす。

船は高く、岸壁は低い。

その板を登り降りはすると板が跳ね上がる。そうなると足と板との調子が狂い歩幅が短くなり、前のめりになって物を抱えたまま転がってしまう。

そうなった時は、物を放り出して逃げるのであるが、それが人情として物を放り出せないのである。

 

私の一輪車にも生コンがいっぱい入った。

歩み板を渡り始めた途端、悪い予感が頭をよぎった。途端に足が動かなくなり、腕が固くなり一輪車は歩み板から外れた。

私は一輪車を放り出さなかった。

生コンと一輪車と共に四国東予市の海中へ落ちていった。