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思い出すこと 3

よなく愛したラーメンがある。
昼食、夕食、残業食と1日3回このラーメンを食べる時もあった。
40数年経った現在も食べに行っている。
岡山県牛窓に住みついてからも行く。
ガソリン代、高速代合わせて、このラーメンは一杯2万円はかかる。それでも月に数度は行きたくなる。
そのラーメン屋の初代主人は九州は久留米の呉服商だったが、ラーメンに人生を懸け、久留米を出て愛媛県今治市に店を開いた。
久留米のラーメンは豚骨の小骨まで混ざっているぐらい濃厚でとろとろが特徴である。それに彼のラーメン哲学が我慢が出来なかったのだ。
この店の私が愛して止まないラーメンは豚骨塩ラーメンである

思い出すこと 2

25歳そこそこの若僧にあれだけの”美”に直接触れる機会は今日あるだろうか。

私は、”千姫”元所持であって、京極家、松平家と伝来した天下の三名品 ”雲山肩衝茶入”重文、仏鑑の”墨跡”そして、朝鮮から秀吉に和睦に来た遊撃将軍が帰国の途上、長崎で病気となり、その時世話になった医者に礼としておいて行った筆洗。後に幻の名碗となった”遊撃五器”。

この茶碗は、大正名器鑑にも写真が無く、手描き彩色で記載されている。

私が一服茶を喫した”遊撃”は、元は”爵”であったのでは?と思った。

釉立ちは大井戸様で、爵の両耳を取り去った跡があった。

私は遊撃は井戸だと思った。

以前九州のさる大名家伝来の大井戸茶碗を当代の奥さんが洗剤で洗ってしまい真っ裸になってしまい、毎日何服もお茶を飲む私に、その茶碗を使ってくれと頼まれ一年間使ったことがあった。

その姿は、”喜左衛門”と”有楽”の中間のようだったと記憶している。

釉立ちは同じようだった。

50年も前の事で、この話は定かではないが・・・。

 

この三名品を所持していたOOさんが、「君が好きの道を行くなら見ておけ。」と言って見せてもらった。

 

OOさんは、昭和天皇のご即位のパレードの時の騎馬隊の先頭で、天皇旗を捧げ持った近衛兵であった。

終戦後退役して田舎へ帰ってくるとき、ハーレーとインディアンの2台のバイクを持って帰ってきた。

私は、ハーレーよりも鉄パイプつくりのインディアンが好きだった。

白いマフラーを首に長く巻いて走る姿を子供心にかっこいいなぁと思った。

思い出すこと

インターナショナル・アカデミー・オブ・セラミック(IAC国際陶芸アカデミー)がある。本部はスイス・ジュネーブのアリアナ公園、元国連のあった場所にアリアナ美術館があり、そこを本部に世界60カ国以上が参加する組織である。この組織は、大学、美術館、陶芸関係者で出来上がっている。古代、近代の古い研究よりむしろ現代の研究、振興に重点を置いている。

 

日本国内のその小型版のようなものが日本陶磁協会であるが、頭に「日本」が付くからいかにも公共のように感じるが、そうではなく、好き者の集団で誰でも入会でき、投稿したり、支部大会でコレクターの物や美術館収蔵の作品を借り出して、古代から現代まで展示鑑賞できた。

私も会社勤めの頃その存在を知った。

そして陶磁協会愛媛支部に入会した。

その頃は、終戦後の急激な経済成長と共に日本文化復興が盛んで、物心共に発展していった。

そんな時は、良いことばかりではなかった。

発展を利用して悪も栄える。

私はその悪を目の当たりに毎日見せ付けられた世代であった。

 

その頃は学者の参加者は少なく、業者と好事家と作家が大半であった。

いわば、骨董屋と骨董好きの集団と思えば分かりやすい。

骨董の世界はニセモノがあるから骨董であって、いつの世でも面白いのであるが。

巧みな作り手と売り手が裏で大活躍をする。

道具を商う商人にしても、松江や加賀の大名を相手にして商った御用商人から、自転車で田舎の辻裏々をかけずり回る商人まで、混合一体化して美術商と言っていた。

もちろん裏社会の一員もいた。

 

私も協会員である以上何かと有名品を手にとって見ることができた。

中でも今も忘れることが出来ないのが、五島美術館の鼠志野茶碗「峰の椛」「冬木伯庵」「鳳凰耳青磁の花入」の三点を今治古狸庵の会場で寝ずの番をした事。

愛媛松山の道後公会堂会場で今、東京国立博物館に収蔵されている信楽茶碗「石臼」を会場の真ん中に敷かれた布団で抱いて寝た事。

岡山県立博物館で開催された楽代々展で、箱から出された長次郎を陳列の中に入れていて、手渡しして受け取り並べた事等の感動は、走馬灯のように今も覚えている。

サラリーマン 3

大阪万博の話がでて、岡山支店開設が本格化してきた。

私は常務に別室に呼ばれた。

その話の内容は、「岡山支店長で行ってくれないか」との事であった。

 

その頃、私には2つショックなことがあった。

私をこの会社に紹介したその人は、愛媛松山の支店長になっていた。その彼が自殺した。

そして、私の部下の使い込みが発覚。

使い込みは上司に知らせる前に、我が課内で残業して帳面づらを合わせて何とかやった。

 

そして、その時が来た。

私は辞令をもらった。見ると、本俸31000円と書いてあった。

私は内ポケットから辞表を出した。

その唐突さに、さすがの常務は言葉が出なかった。

 

私にいつも協力的だった部下の一人が、「課長が辞めるなら僕も辞める」と言って、私と同時期にに辞めてしまった。

彼は、優男で背が高くて男気の強い彼は、

その後、彼が特殊コンピューター会社の社長になったことを私が知ったのは、昨年のミウラートヴィレッジ・三浦美術館での個展のオープニングに女房を連れて来てくれて、であった。

今は会社を退職してのんびりやってるらしい。

 

私は会社を辞め、東京での個展のため、本格的に絵を描き始めた。

「一年以内に売れる絵を描く」

自分に言い聞かせては、励んだ。

そして個展も終わった。

そんなに甘いものではなかった。

 

又無一文で東京へ出て行った。

今度は一人でなかった。

会社の別部内にいたデザイナーが、東京で仕事がやってみたいと同行した。

恵比寿の谷間のような貧しいアパート6畳一間に2人で住んだ。

彼は数ヶ月後に赤坂の有名デザインオフィスに就職して、部屋に私一人が残った。

寒い冬だった。