青春時代 9
「王子の三ツ矢自動車教習所、助手募集」
拾った新聞のすみに出ていた。
読んでみるとなかなか条件が良かった。
「制服支給、1教程100円」とあった。
志村前野町から王子はバスで遠くはなかった。
三ツ矢自動車、三ツ矢航空等、色々な事業をやっているようだった。
もしかすると三ツ矢サイダーも同じかも?
面接と実地試験があり、私は受かった。
仕事は、教官の代理で教習所内を生徒の車に同乗しているだけであった。
毎日終了後、教習車を洗車する。それも教官の代理に洗うと100円もらえた。
ここでアルバイトで来た渡辺孝と親しくなった。
彼は国士舘大学で空手をやっていたとの事で、見上げるような大男だった。男惚れするようないい男だった。
一度、府中免許センターで東京都自動車安全協会の自動車運転競技会があった。
彼と私は、三ツ矢自動車から応募して行った。
彼が1位で、私は2位だった。
教習の仕事が終わった夜から別の仕事で、大宮から岐阜まで くろがね自動車の”くろがね・ベビー軽四トラック”を箱根越えをして陸送したことがあった。
彼は人を束ねる力のある人だった。
*「くろがね自動車」とは、東急くろがね工業が、第二次世界大戦後から、1962年まで製造をしていた自動車。
何年か過ぎた頃、私は釣りにはまったことがあった。
磯の王者、石鯛の釣竿を買ったが、私の体力に合わず、彼にプレゼントをした。
彼はこの竿を持って小笠原へ行った。それが彼を釣りの病に入り込ませてしまった。
吉祥寺の駅前の突き当たりにイタリア料理店と食材の輸入業をやっていた彼は、店も実家も全てを奥さんに渡して、竿一本持ってカナダでスポーツフィシングを目指して行ってしまった。
一度だけ手紙をもらった。私も行きたいと返事を出したが、二度と連絡は無かった。
彼は今どうしているだろうか。
青春時代 8
何年何月号だったか忘れたが、芸術新潮の特集 「画家とモデル」
の文章の中で、池田満寿夫が、「私は裸婦は描くが、モデルを使わない。なぜならすぐやりたくなるから。」 と書いてあった。
私もこの事は、今もって同感である。
研究所は毎日モデルが来ている。
若い人から初老まで、痩せたの太いの、白いの黒いの、帝王切開の跡のくっきりした人と、何か人生を見ているようである。
絵のモデルは、服飾のモデルと違ってどんな体形でもよい。又男性も使う。
教室に入ると慣れた者と不慣れな者が良く分かる。
慣れた者は、モデルの前の位置取りが実に上手い。モデルの隅々まで手に取るように見える場所に三脚を立てる。
モデルの方はプロだから、絵が上手いか下手か向こう側からこちらを見る。下手な者は馬鹿にされているのを感じながら描かねばならない。
ストリップを見るのも同じで、向こう側から見ていることを考えると前へ行くには最初は少々勇気がいる。
モデルにも上手と下手がある。
モデル台の上に乗る時、それがよく分かる。
ポーズを変える時、実に慣れを感じる。又個人的に頼べばどんなポーズでもやってくれるものだ。
私は一度だけすごく若くて美しいモデルを見た事があった。
身体は上から下までピンク一色の肌で、日当たりと日陰が全くなかった。
私には経験が無く慣れていないので、よからぬ思いが頭をよぎり、目が引きつった。それが他人に感ずかれないかという羞恥心と、絵が下手で描けない自分をモデルの前に持って行けなかった。
いつも前の人の後頭部ばかり見ていた。
青春時代 7
2008年、ニューヨークのコロンビア大学で、メトロポリタン美術館の学芸員の司会による講演会、「備前焼、今昔」 をやった。
終わった時は、真っ黒な星の無い夜だった。
大学を出て暫く歩いて振り返った。
闇に浮かび上がったドデカイそのドーム見て、私は「やった。やったのだ。」と自分に言い聞かせた。
あの志村前野町の二階への階段を、空腹と疲れで登れなかったあの時と、どうしてもつながらない。
その頃の私は、絵を描くと言うのではなく、やたら絵の具を盛り上げる事に夢中になっていた。
絵の具が足りない分、トイレットペーパーをデパートのトイレから持ち帰り、夜、絵の具と板の上で混ぜていた。
その物音で度々朝飯のとき文句がでた。
まるで左官屋が壁土をねるような状態だった。
その時私が絵を描いていることは、下宿の主人も住人も誰も知らなかった。
ただ、夜中になるとトントン音がするだけだった。
その時の下宿の奥さんの顔はしっかり覚えている。
色白で眉の濃い、目鼻立ちのすっきりした人で、口はおちょぼ口で少々前歯が前に出ていた。一人娘も色白でよく似ていた。東京弁で早口で、いつも怒られているようだった。
壁にもたせ掛けて描いた20号のキャンパス(72.2 x 60.6cm)の木枠が絵の具の重さでついに折れた。
街で拾った板切れを釘で打ち付け、何とかもたせた。
その絵は、その場から重くてついに動かすことが出来なくなっていた。
定義:芸術とは、いかに無駄をまじめにやるか?
その言葉通りにやっていた。
青春時代 6
背に腹は変えられず、職安へ来た。
先日の担当がいない場所へ並んだ。
今度は、藤巻塗装という工場へいった。各種メーターの文字盤専門の塗装をやってた。
私の仕事は真鍮の円盤に下地をつけてあるものを、水ペーパーに黒いゴムの当てに巻いて研ぐ。立って、膝の高さぐらいに厚い板が長く設置してあり、その50cmぐらい上に水道の配管が板に沿って通っている。
そのパイプから四六時中水が細く一筋落ちている。その下でほとんど研ぎ落として又下地付けに回す。
この作業は、一日中昼の食事以外はつづく。
私は昼食は金が無くて食べなかった。
従兄弟が、志村前野町に下宿を探してきた。
朝夕食事付きで確か七千円だったと思う。
下宿は斎藤さんと言って、広島出身で娘と三人家族で一階に住んでいた。
まだ美術研究所へ行く暇も金も無かった。
休まず1ヵ月働いて九千円には届かなかった。下宿代と電車賃を取ったら、ほとんどが残らなかった。
お袋が米と大豆を炒って砂糖をまぶしたものを一斗缶に一杯詰めて送ってくれた。
親父に隠れて送ってくれた。
お袋の精一杯の気持ちだったのだろう。