BLOG

高校時代 16

二科愛媛支部展の後は絵を描くこともなかった。

自分は自分なりに悩んだ。

親に言っても進学は不可能だし、さりとて就職口は親の希望とはあまりにもかけ離れていた。

父は”間建設”へ入れたかった。なぜなら縁者に重役の最右翼がいた。

母は自分の一番尊敬していた大阪中央市場で青果問屋をやっていた兄が亡くなったため、どこか丁稚奉公に行かせ青果をやらせたかった。

私は密かに美大や専門学校の資料を取り寄せていた。 MORE »

高校時代 15

二科会愛媛支部の新聞のインタビューで私は、
「働きながら絵を描き続けたい」 と言った。
数週間過ぎた頃、となり町の新居浜市の孔版印刷所の社長が学校へ私をスカウトするために訪ねて来た。
面接した社長は弱々しく優しそうで生真面目な人だった。
後日私は会社訪問をした。
古い民家の横階段を上った左側に和室があった。和室には、お姉さんが腕抜きをしてガリ版の鉄筆で版作りをやっていた。
社長の話では、時々自費出版等があり、挿絵が必要なときがあるので描いて欲しいと言った。
挿絵の無いときはガリ版の版作りをやってくれれば良い。との話であった。 MORE »

高校時代 14

私が理由は知る由もないが植木先生は、脊椎カリエスで寝たきりの女性と結婚したのである。

私は先生の住んでいる町営住宅を50号のキャンパスいっぱいに描いた。
なぜかその赤い屋根とクリーム色の壁の横2列の色のみの絵であった。
植木先生からの話で、愛媛大学教育学部の野村正三郎教授が中心で、二科会愛媛支部を結成するとの事。
私に参加をしないか、との事だった。
第一回発表は三越松山店で開催するとのことだ。
私はF10号3枚に花の絵を3点描いて、三越の壁を飾った。
大学や県内で頑張っている二科会の大先輩に囲まれて、私は生涯絵を描こうと決心をした。
愛媛新聞の家庭欄には、私の記事が2日連続トップで掲載された
「少年天才画家」と。 MORE »

高校時代 13

当時私の科では英語は選択制であった。
私は高校2年生から多少下心があって英語を選択した。
中学で選択しないで高校の2年からではとても皆について行けなかった。
テストの時は名前は必ずアルファベットで書いた。それに対して担任は3点プラスしてくれた。この3点は、私にとって生涯が開かれるのである。 MORE »