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高校時代 15

二科会愛媛支部の新聞のインタビューで私は、
「働きながら絵を描き続けたい」 と言った。
数週間過ぎた頃、となり町の新居浜市の孔版印刷所の社長が学校へ私をスカウトするために訪ねて来た。
面接した社長は弱々しく優しそうで生真面目な人だった。
後日私は会社訪問をした。
古い民家の横階段を上った左側に和室があった。和室には、お姉さんが腕抜きをしてガリ版の鉄筆で版作りをやっていた。
社長の話では、時々自費出版等があり、挿絵が必要なときがあるので描いて欲しいと言った。
挿絵の無いときはガリ版の版作りをやってくれれば良い。との話であった。 MORE »

高校時代 14

私が理由は知る由もないが植木先生は、脊椎カリエスで寝たきりの女性と結婚したのである。

私は先生の住んでいる町営住宅を50号のキャンパスいっぱいに描いた。
なぜかその赤い屋根とクリーム色の壁の横2列の色のみの絵であった。
植木先生からの話で、愛媛大学教育学部の野村正三郎教授が中心で、二科会愛媛支部を結成するとの事。
私に参加をしないか、との事だった。
第一回発表は三越松山店で開催するとのことだ。
私はF10号3枚に花の絵を3点描いて、三越の壁を飾った。
大学や県内で頑張っている二科会の大先輩に囲まれて、私は生涯絵を描こうと決心をした。
愛媛新聞の家庭欄には、私の記事が2日連続トップで掲載された
「少年天才画家」と。 MORE »

高校時代 13

当時私の科では英語は選択制であった。
私は高校2年生から多少下心があって英語を選択した。
中学で選択しないで高校の2年からではとても皆について行けなかった。
テストの時は名前は必ずアルファベットで書いた。それに対して担任は3点プラスしてくれた。この3点は、私にとって生涯が開かれるのである。 MORE »

高校時代 12

朝鮮動乱の戦需景気で豊かさが見え始めた。

惟弘は家業を手伝う為にホンダのバイク”ドリーム号”を買ってもらい、学校へ載って来た。運動場で乗って見せた。
「これがクラッチで、これがブレーキ」
と教えてもらった。
クラッチ、アクセルの関係を覚えないうちに待ちきれず、私は借りて乗ってみた。
クラッチとアクセルの調節がうまくいかずエンストをして走らない。
ところがいきなりドリーム号は走り出した。グランドを1周、2周としているととても痛快に思った。
が、車を止める方法は聞いていなかった。大声で聞いてみたが、惟弘の前をあっと言う間に通り過ぎ、痛快から不安に一変した。 MORE »