BLOG

高校時代 11

我母校は周布桑養蚕学校と周布桑女学校が合併して出来た新制高校である。
農業専門学校ではなくて、私のクラスは普通科に農業科目が余分にあるような教室であった。教科によっては、普通科と同じ授業体になる。
普通科は、女性のみのA組から始まり、就職コースの男女混成のB組、就職、進学の男女混成のC組、進学コースのD組。そして、我が農業科のE組と編制されていた。
体育等はC組と同時授業で、なぜか ”血わき肉踊った”
サッカーはC組は逃げ回り、ボールはどこにあろうと関係なかった。
相手の尻を蹴る事に専念した。
C組は体育の時間がさぞイヤだったろう。 MORE »

高校時代 10

惟弘のおふくろの話だと、
「寝たきりでも腹が減って太鼓饅頭を腹いっぱい食いたい」
との話であった。
正三と私は、ありったけの金を集め太鼓饅頭を50個ぐらい買って惟弘の家に向かった。
惟弘は天井から片足をロープでつられ、その足は白い布でグルグル巻きにされていた。
それにしても饅頭の食いっぷりはすごかった。
見ているこちらも腹がぐうぐうなった。
惟弘は腹いっぱい食ったところでトイレに行くと立ち上がった。
親子して私達をからかっていた事に気がつくまでしばらくかかった。

食堂で饅頭の食べ比べを3人でやったことがあった。
負けた方が支払う約束だった。
正三は早いうちにギブアップをした。
私は饅頭20個と素うどん2杯食って「勝った!」と思った。
惟弘はその上に肉うどん1杯食った。
正三と私は金を払わされた。
そんな金はノート代とか、教科書代とか自転車の修理代とかで親からせしめた。

私のクラスに質屋の息子がいた。
その質屋へサッカー部の勇が、盗んだ(盗品)靴を質入れしたとの警察の調べが始まった。
勇は悪仲間ではあったが、そんな事をするような人間ではなかった。
彼は授業が終わると毎日警察へ取調べに行く。行っても何もしゃべらないから2,3日続いたと思う。
彼は我々仲間には警察であった事を一部始終話した。
とにかく彼を仲間で応援し頑張らせた。
結果的にはやはり無罪となった。
彼には1日いくらかの日当が出た。
仲間でうどんと饅頭を食った

高校時代 9

私と惟弘に、普通科で剣道部の正三が加わった。
農業科1に普通科2の3人組みは、いつも3人の誰かの家で寄食していた。
それぞれに片思いの女学生がいた。
その女性を名前で呼ぶのにはあまりにもきまりが悪く、恥ずかしく、もったいなくてそれぞれに愛称を付けていた。
私の彼女のつもりの人は
「ピョン」 と付けていた。
歩く時はまるで弾むように、体育でも何をしても活発で底抜けに明るくて、
いつも弾んでいる様から名づけた。
ピョンは歩いていても、自転車に乗っていても、背中をピンと伸ばしてとても姿勢がよかった。
何百メートル離れていても集団の中から見つけることが出来た。
私の教室は校門のすぐ左にあった。
毎朝ピョンが校門から私の教室の前を通過するのは時間ギリギリ。
何十人がなだれ込んでも判明できた。
今日一日は幸せであった。

学校のある町は、古く小さな町で江戸時代からの宿場町であった。
戦後のことで食堂らしきものは一軒のみであった。
その店はうどんと太鼓饅が主流だった。
その頃は太鼓饅頭と言って、現在の大判焼きの半分の大きさであり、後に倍判になったので「大判焼き」と改めた。

3人は暇と金の続く限りこの店に入りびたりだった。
ある時、惟弘のおふくろさんから学校へ電話があった。
電話に出てみると惟弘が交通事故をおこし寝たきりになったとの事であった。
つづく・・・

高校時代 8

石坂洋二郎の名作 石中先生行状記
映画「青春無銭旅行」に大正ロマンを私は強く感じた。

詰め襟の学生服は高校で指定の木綿の黒で、スネは出るし、擦れた所は白くなる。
皆アイロンをかけたり、寝押しをしたりしていた。
頭髪は当時リーゼントが流行った。
私はなぜか、それは馴染めなかった。
ズボンと上着はわざと脱ぎっぱなしにして、その上に布団を敷いて寝押しをする。すると見事なシワがよる。歩くとシワが伸びたり縮んだり。
これを提灯服とよんでいた。
腰にはタオルをぶら下げて帽子は破ってはミシンで縫い、又破っては縫う。
ツバは二つ折りにして二本の白線はちぎれ所々ミシンで付いているだけ。あると言えばある、無いと言えば無い。
どこにでも腰を下ろして座る。その時帽子を尻に敷く。汗も拭く。
帽子には裏地があり、その裏地をはがして一重布にする。
帽子に付いた校章にはネジが付いていて、一重になった帽子布ではそのネジがわりと邪魔になる。
そこでネジを取り去って、糸で帽子に直接縫い付ける。
それが”バンカラ”でとてもおしゃれだと思っていた。

彼女からもたまに手紙が返ってくるようになったら、少々「これでは」と思い始めた。
頭髪を伸ばしてみたが、私の髪は硬くて直毛でチックや油ではなかなかリーゼントとはいかなかった。
私の母は大阪の青果問屋の娘で、和風に髪を結っていた。
髪にカールをつけるための道具の中に、鴨のクチバシのようなコテがあった。
火鉢には、多かれ少なかれ年中炭火が入っていた。
そのコテがとんでもなく威力を発揮した。コテを火鉢に突っ込んで焼きコテにする。最初は上手く行かず髪が焼き切れた。手加減も慣れてくるとそれは見事なリーゼントになった。
顔はくっきりとプレスリーなった気分でいた。
帽子をかぶるには勿体なかった。
学校へ行く自転車のスピードは軽快であった。
昼食頃から雨になった。
すると髪は直線的に戻り、河童の丘上がりのようになって所々カールが残って ”落合恵子”のモノマネの様になった。