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中学時代 2

旧町村名 愛媛県周布桑郡国安村。村立中学校の同級生は120人ぐらいいたと思う。
小学校の頃から絵の上手い者が何人かいた。
その中で一際抜きん出た光雄がいた。彼は私の家の3軒隣に住んでいた。絵は勿論、勉強もスポーツも、走らせるとその早きこと風のごとし、喧嘩も遊びも。特にコマまわしは凄いものを感じた。彼の前に出るものは世の中にいないと小学生の時から思っていた。
私は何の人生哲学も思想もあったわけではなく、その彼が、就職コースに手を上げたから、その流れに乗っていつの間にか手が上がっていた。という方が正しいと思える。なのに、双子のごとくいつもくっついて遊んでいた英二が進学コースへ行ったのはよく理解できなかった。英二は後に、地球物理学会の会長もし、大学教授としてロシアやスウェーデンでも活躍した。
光雄は京都へ友禅染めの修行に行った。つづく・・・

中学時代

古い話をやり始めたら、年をとった証だと世間では言うらしい。
仕事をやっていると若い頃の発見や経験が意外と役に立つ。
もっと言えば、それだけで今日生きているのだ。・・・残念なことに。
私の両親は子供の将来等の事はあまり考えない人だった。どちらも6人兄弟の6番目みたいで、自分達の現在でいっぱいいっぱいだった。

私が小学校6年の秋のことだった。
親父が足に大怪我をした。長期入院をして翌4月、自分の郷里、宮城県の鎌先温泉へ私を連れて、親子3人で湯治に行くと言い出した。
中学校へ入ったばかりで担任は反対したのだが
「親が連れて行くのに何が悪い」
の一点張りで、やむなくOKがでた。私も別に嫌でもなかった。
そういう家族であった。

私が高校へ進学する事も無関心だった。
私は中学の2学年に進学するとき何も考える事も無く、英語がなくて職業があった就職コースに手を上げていた。
進学コースの者達は毎日居残り学習をやっていたが、私はその者達のことを「何か悪いことでも仕出かして居残りさせられているのだ」
と思い込んでいた。そのまま3年生となった。
私は中学校を卒業すると、横浜の鶴見へ丁稚奉公に行く事を両親にも言わず、自分で決めていた。とにかく東京の近くへ出て行くことを考えるだけで胸が高鳴った。進学組も就職組も全くきにする事なく、ひたすら心は横浜の街をさまよっていた。かといって行く先が具体的に決まっていたわけではない。ただひたすら卒業を待っているだけであった。
 

物を作るということは・・・・

その物の行く末を私は結構意識して考え込んでしまう。その結果、箱や体裁に力が入ると言えば全くそうなのである。
ひどい話と笑われそうな事も考える。
例えば、
人間が地球ごといつかは無くなると思い・・・
それなのになぜ作るのか・・・
まで考えが行ってしまい眠れなくなる。
最後はそんな先の事よりも、明日食う為だと言い聞かせて眠るのである。
この度、私のブロンズ作品2点がミウラートヴィレッジ(三浦美術館)に納まることがほぼ決まった。聞く末が一つ決まって楽になった。安倍

カレンダー

島田紳助のコマーシャルでおなじみだった 「世界のボイラーと水の浄化」で東証一部上場会、三浦工業(株)のコマーシャルが紳助と共にテレビから消えた。今度はどんなコマーシャルになるのだろうか?楽しみだ。
この会社が持つ美術館、ミウラートヴィレッジで私は昨年2010年個展をやった。その作品の一部とこの会社の創業者・三浦保氏とのコラボレーションで2012年版カレンダーが出来る。
欲しい方はご一報ください。但し数に限りがありますので、届かなかった方はすみません。