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高校時代 9

私と惟弘に、普通科で剣道部の正三が加わった。
農業科1に普通科2の3人組みは、いつも3人の誰かの家で寄食していた。
それぞれに片思いの女学生がいた。
その女性を名前で呼ぶのにはあまりにもきまりが悪く、恥ずかしく、もったいなくてそれぞれに愛称を付けていた。
私の彼女のつもりの人は
「ピョン」 と付けていた。
歩く時はまるで弾むように、体育でも何をしても活発で底抜けに明るくて、
いつも弾んでいる様から名づけた。
ピョンは歩いていても、自転車に乗っていても、背中をピンと伸ばしてとても姿勢がよかった。
何百メートル離れていても集団の中から見つけることが出来た。
私の教室は校門のすぐ左にあった。
毎朝ピョンが校門から私の教室の前を通過するのは時間ギリギリ。
何十人がなだれ込んでも判明できた。
今日一日は幸せであった。

学校のある町は、古く小さな町で江戸時代からの宿場町であった。
戦後のことで食堂らしきものは一軒のみであった。
その店はうどんと太鼓饅が主流だった。
その頃は太鼓饅頭と言って、現在の大判焼きの半分の大きさであり、後に倍判になったので「大判焼き」と改めた。

3人は暇と金の続く限りこの店に入りびたりだった。
ある時、惟弘のおふくろさんから学校へ電話があった。
電話に出てみると惟弘が交通事故をおこし寝たきりになったとの事であった。
つづく・・・

高校時代 8

石坂洋二郎の名作 石中先生行状記
映画「青春無銭旅行」に大正ロマンを私は強く感じた。

詰め襟の学生服は高校で指定の木綿の黒で、スネは出るし、擦れた所は白くなる。
皆アイロンをかけたり、寝押しをしたりしていた。
頭髪は当時リーゼントが流行った。
私はなぜか、それは馴染めなかった。
ズボンと上着はわざと脱ぎっぱなしにして、その上に布団を敷いて寝押しをする。すると見事なシワがよる。歩くとシワが伸びたり縮んだり。
これを提灯服とよんでいた。
腰にはタオルをぶら下げて帽子は破ってはミシンで縫い、又破っては縫う。
ツバは二つ折りにして二本の白線はちぎれ所々ミシンで付いているだけ。あると言えばある、無いと言えば無い。
どこにでも腰を下ろして座る。その時帽子を尻に敷く。汗も拭く。
帽子には裏地があり、その裏地をはがして一重布にする。
帽子に付いた校章にはネジが付いていて、一重になった帽子布ではそのネジがわりと邪魔になる。
そこでネジを取り去って、糸で帽子に直接縫い付ける。
それが”バンカラ”でとてもおしゃれだと思っていた。

彼女からもたまに手紙が返ってくるようになったら、少々「これでは」と思い始めた。
頭髪を伸ばしてみたが、私の髪は硬くて直毛でチックや油ではなかなかリーゼントとはいかなかった。
私の母は大阪の青果問屋の娘で、和風に髪を結っていた。
髪にカールをつけるための道具の中に、鴨のクチバシのようなコテがあった。
火鉢には、多かれ少なかれ年中炭火が入っていた。
そのコテがとんでもなく威力を発揮した。コテを火鉢に突っ込んで焼きコテにする。最初は上手く行かず髪が焼き切れた。手加減も慣れてくるとそれは見事なリーゼントになった。
顔はくっきりとプレスリーなった気分でいた。
帽子をかぶるには勿体なかった。
学校へ行く自転車のスピードは軽快であった。
昼食頃から雨になった。
すると髪は直線的に戻り、河童の丘上がりのようになって所々カールが残って ”落合恵子”のモノマネの様になった。

高校時代 7

高校1年の夏休み、美術部で倉敷・大原美術館へ1泊2日の見学会を私が企画した。
なぜか2年生、3年生はいないのである。
美術部へはあまり顔を出さないにもかかわらず、こんな時だけ口を出す。
部員何人で行ったか古い話で覚えてないが、4,5人居たと思う。
彼女が居たことだけはしっかり記憶がある。彼女と言ってもまだ直接口をきいたことがなかった。
彼女は野球が好きだったのか?部員が好きなのか? 野球の応援で忙しかった様だ。

もう一つ覚えていないのが引率した先生が高校の先生でなく、中学で私を高校へ行かせた美術の佐伯先生がなぜかついていった事である。

倉敷で宿泊したのはホテルでも旅館でもなく、教職員宿舎で、大広間に皆で雑魚寝したこと。
佐伯先生が闇駕籠に包丁と桃をいっぱい入れて下駄履きで来たこと。
そして、”セガンチーノ”の絵は今も鮮明に覚えている。
{闇駕籠とは、戦後闇市に行くときに皆下げていった草で編んだ買い物駕籠のこと}

大原美術館には、グレコ、セザンヌ、ゴッホ、ルオー等名品が溢れるほどあるにもかかわらず、なぜ”セガンチーニ”なのか?
これも自分で今考えても、その後何度見ても判らない。
不思議な現象なのである。

もう一人女学生がいたと思う。
彼女は美術大学へ行った。
その後、私の個展に娘を連れて来てくれた。
「娘です。」と紹介してくれた。
”コムロ テツヤ” とか言う人と結婚したと言っていた。

セガンチーニは彼女が
「私はこの絵が好き」 と言ったのでは・・・?

同窓会

2011年10月16日~19日にかけて、旧名・国安中学の同級会を台湾でやった。小さな田舎の小さな小中学校の小さなクラスだけれども毎年毎年楽しみにしてやっている。

台湾には私のファンで業者のKさんがいる。
台湾に行く事を何かのついでに一応お知らせした。
その彼からFAXが入り、茶碗と酒器を持ってきてくれとの事だった。

当日、男性4人と女性3人が台湾へ集まった。
私は台湾からの東日本大震災への義援金のニュースを見て感激し、頭が下がる思いをした。
その意思表示を、黒と赤のTシャツに油彩で背中に
「謝謝台湾」と大きく描いた。
胸の方には子供達と太陽と犬が遊んでいる絵を描いた。
黒いTシャツをわたしは着用していた。
地元ガイドがそのTシャツが欲しいと言うので、赤い方をプレゼントした。
彼女は「謝謝」と言った。

ホテルへ来た業者のKさんが、私を見るなり
「台湾のテレビでコマーシャルに出ている私をいつも見ている。」
との歓喜の声を聞いた。
結果的に、昼間は彼の案内で私のファンやギャラリーを回り、
同級会は夜のみの参加になった。

帰国後は 韓国 大邱アートフェアーの準備で大忙しだ!

PS, 明日は”つぶやき” 公休日