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中学時代 6

昔は工業高校は人気が高く、普通高校よりも難しかった。
私は、受験するつもりは全くなかったので、今治工業高校受験日には、在間のマーと二人でNHKラジオに民謡”国安音頭”の歌を吹き込みに行く予定だった。それを急きょ取りやめて受験に行った。
同級生で8人受験した。私は就職コースから1人受験した。
私は合格し、2人不合格だった。当時は入試調整が無かった。
授業料を親にもらえば後はどこへ払っても、玄関を出れば東へ行こうと西へ行こうと、親父は元々関心がない話だと考え、転校活動に励むとともに、画家になろうと考え方も変更した。
愛媛県立高等学校農業科だったら転校可能であった。
自分で勝手に転校してしまった。転校して驚いた!
今治工業高校から届いていた受験成績がクラス55名中、2番だった!
副室長を拝命した。
つづく・・・・

中学時代 5

卒業間近になった日、担任の佐伯先生が「親父いるか?」と訪ねて来た。
佐伯先生は図工科の先生で美術を担当していた。
父への話とは、受験も就職も迫っている事とどちらを選ぶかを確かめるためであった。先生は父に、「絵が少々描けるから高校へ行かせて、将来グラフィックデザイナーでもやらせては?」と言った様に想う。
父は私に「どうか?」と聞いてきた。私は「県立小松高等学校普通科へ行きたい」と言った。なぜなら小松高校には県展で活躍している先生がいることを知っていた。その先生は私の家の近所に恋人がいたことを子供心に知っていた。
父は小松高校はダメだといい、県立今治工業高校だったら行かせるとのことであった。
つづく・・・

中学時代 4

タイムカプセルを開ける同級会をテレビでよく見かける。
私の時代はタイムカプセルはなかった。
将来何をしたいか作文にする授業があった。
私は覚えている。動物が好きだから獣医になって動物園に勤めたいと書いた。
小学校のときは”野口英世”の伝記を読んで、医者になろうと考えた時があった。クラスの勝が医学部を3年か4年連続受験して後に、倉庫会社に就職した。彼は中学も高校もすごい勉強をしていた。
私は予習も復習も宿題もやらないことにしていた。時には授業もさぼる事にしていた。勉強して出来るのはなぜか許せなかった。
テストは何もしないで挑むのが正義だと自分に言い聞かせていた。
学ぶことはまねることからだと言う。
私は野口英世の伝記に忠実に「ドジョウを小川ですくう」事はよくまねた。

中学時代 3

私は体育も勉学もだいたい中ぐらいで見栄えのしない、いわゆる並だった。英雄と言う頭が優秀で柔道のうまい転校生が来た。
彼に誘われて警察本署の柔道場へ練習に行くようになった。
彼に演劇も教わった。別に部活があるわけでもないのに、時間があれば場所を選ばず、教室とは言わず、映画の一場面を再現する。特に「剣豪ダルタニアン」は熱心にやった。
そのうちに誰とはなしに人数が増えて、6,7人になり、英二も加わった。
英二と私はいつの間にか主役を演ずるようになった。台詞も筋書きもいつの間にかアドリブでまとまり、「西瓜泥棒」「一芸の関所」が完成した。
田舎の劇場を借り上げて有料で開演した。劇の途中で私が何か余計なことを行った為に幕引き役が誤って途中で幕を引いてしまい、あわててまた開幕した事を今も鮮明に覚えている。
その英雄も北朝鮮へ帰って行った。