青春時代 10
結果的にどうにもならないのが金であった。
東京の年の瀬は淋しい。
腹が減って金が無い。これは、とても淋しい。
道を歩いていると、後ろから車が来てクラクションを鳴らす。
気がつくと私は道いっぱいに蛇行している。
パン屋さんはかなり遠くから分かる。パン屋の前を通ると空腹のあまり、顎がガツガツ鳴る。
私は上板橋のアパートに移った。
アパートと言っても、戦争中の兵舎をベニヤ板で仕切った部屋であった。窓は一つあった。
下宿代が払えなくここへ来た。
家賃3千円だったと思う。
古道具屋で古い石油コンロを買った。二百円ぐらいだったと思う。
フタ付きミルクパンを一個買った。米は5合買った。
5合の米で一ヶ月食って行くことにした。
新聞紙を拾ってきて、米を盛る。その新聞紙の真ん中を持ち上げると半分に、さらにその真ん中を持ち上げると四分の一に・・と。兎に角小分けにして新聞に包んで、決して米を食べ過ぎないようにした。
一つまみの米をミルクパンでおも湯を作る。朝、湯のみに一杯、夜一杯、昼は食パン一枚でやってみた。
これは決して絶食やダイエットをしているのではない。
「頑張ればそのうち何とかなる」と夢があった。
ある日バイトから夕方帰ってきたら、アパートの前に人だかりが出来ていた。
何かあったのかと小走りに来て驚いた。
私の部屋の真上の部屋が火事で焼けていた。
ボヤで消し止めたのだが、真下の私の部屋は水浸しで、敷きっぱなしの布団は水をかぶった上に、長靴で踏みつけられてぐちゃぐちゃになっていた。
布団が乾くのに数ヶ月かかった。
東京駅の大丸デパートのギャリーで、絵を見ていた。
フワ~っと身体が軽くなったと思ったら、倒れていた。
栄養失調で心臓脚気になっていた。
田舎には帰りたくなかった。
青春時代 9
「王子の三ツ矢自動車教習所、助手募集」
拾った新聞のすみに出ていた。
読んでみるとなかなか条件が良かった。
「制服支給、1教程100円」とあった。
志村前野町から王子はバスで遠くはなかった。
三ツ矢自動車、三ツ矢航空等、色々な事業をやっているようだった。
もしかすると三ツ矢サイダーも同じかも?
面接と実地試験があり、私は受かった。
仕事は、教官の代理で教習所内を生徒の車に同乗しているだけであった。
毎日終了後、教習車を洗車する。それも教官の代理に洗うと100円もらえた。
ここでアルバイトで来た渡辺孝と親しくなった。
彼は国士舘大学で空手をやっていたとの事で、見上げるような大男だった。男惚れするようないい男だった。
一度、府中免許センターで東京都自動車安全協会の自動車運転競技会があった。
彼と私は、三ツ矢自動車から応募して行った。
彼が1位で、私は2位だった。
教習の仕事が終わった夜から別の仕事で、大宮から岐阜まで くろがね自動車の”くろがね・ベビー軽四トラック”を箱根越えをして陸送したことがあった。
彼は人を束ねる力のある人だった。
*「くろがね自動車」とは、東急くろがね工業が、第二次世界大戦後から、1962年まで製造をしていた自動車。
何年か過ぎた頃、私は釣りにはまったことがあった。
磯の王者、石鯛の釣竿を買ったが、私の体力に合わず、彼にプレゼントをした。
彼はこの竿を持って小笠原へ行った。それが彼を釣りの病に入り込ませてしまった。
吉祥寺の駅前の突き当たりにイタリア料理店と食材の輸入業をやっていた彼は、店も実家も全てを奥さんに渡して、竿一本持ってカナダでスポーツフィシングを目指して行ってしまった。
一度だけ手紙をもらった。私も行きたいと返事を出したが、二度と連絡は無かった。
彼は今どうしているだろうか。
青春時代 8
何年何月号だったか忘れたが、芸術新潮の特集 「画家とモデル」
の文章の中で、池田満寿夫が、「私は裸婦は描くが、モデルを使わない。なぜならすぐやりたくなるから。」 と書いてあった。
私もこの事は、今もって同感である。
研究所は毎日モデルが来ている。
若い人から初老まで、痩せたの太いの、白いの黒いの、帝王切開の跡のくっきりした人と、何か人生を見ているようである。
絵のモデルは、服飾のモデルと違ってどんな体形でもよい。又男性も使う。
教室に入ると慣れた者と不慣れな者が良く分かる。
慣れた者は、モデルの前の位置取りが実に上手い。モデルの隅々まで手に取るように見える場所に三脚を立てる。
モデルの方はプロだから、絵が上手いか下手か向こう側からこちらを見る。下手な者は馬鹿にされているのを感じながら描かねばならない。
ストリップを見るのも同じで、向こう側から見ていることを考えると前へ行くには最初は少々勇気がいる。
モデルにも上手と下手がある。
モデル台の上に乗る時、それがよく分かる。
ポーズを変える時、実に慣れを感じる。又個人的に頼べばどんなポーズでもやってくれるものだ。
私は一度だけすごく若くて美しいモデルを見た事があった。
身体は上から下までピンク一色の肌で、日当たりと日陰が全くなかった。
私には経験が無く慣れていないので、よからぬ思いが頭をよぎり、目が引きつった。それが他人に感ずかれないかという羞恥心と、絵が下手で描けない自分をモデルの前に持って行けなかった。
いつも前の人の後頭部ばかり見ていた。
青春時代 7
2008年、ニューヨークのコロンビア大学で、メトロポリタン美術館の学芸員の司会による講演会、「備前焼、今昔」 をやった。
終わった時は、真っ黒な星の無い夜だった。
大学を出て暫く歩いて振り返った。
闇に浮かび上がったドデカイそのドーム見て、私は「やった。やったのだ。」と自分に言い聞かせた。
あの志村前野町の二階への階段を、空腹と疲れで登れなかったあの時と、どうしてもつながらない。
その頃の私は、絵を描くと言うのではなく、やたら絵の具を盛り上げる事に夢中になっていた。
絵の具が足りない分、トイレットペーパーをデパートのトイレから持ち帰り、夜、絵の具と板の上で混ぜていた。
その物音で度々朝飯のとき文句がでた。
まるで左官屋が壁土をねるような状態だった。
その時私が絵を描いていることは、下宿の主人も住人も誰も知らなかった。
ただ、夜中になるとトントン音がするだけだった。
その時の下宿の奥さんの顔はしっかり覚えている。
色白で眉の濃い、目鼻立ちのすっきりした人で、口はおちょぼ口で少々前歯が前に出ていた。一人娘も色白でよく似ていた。東京弁で早口で、いつも怒られているようだった。
壁にもたせ掛けて描いた20号のキャンパス(72.2 x 60.6cm)の木枠が絵の具の重さでついに折れた。
街で拾った板切れを釘で打ち付け、何とかもたせた。
その絵は、その場から重くてついに動かすことが出来なくなっていた。
定義:芸術とは、いかに無駄をまじめにやるか?
その言葉通りにやっていた。